二つの神社からなる桑名の総鎮守 桑名宗社(俗称:春日神社)

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春日神社のあれこれ

執筆者桐田貴史 氏

鬼嶋図書と伊勢国北郡「惣神主」

承応(じょうおう)4年(1655)正月、桑名春日社(現・桑名宗社)の神主・鬼嶋(きしま)図書(ずしょ)は、ある願望のために京都に在った。彼は時の関白・二条康道と面会し、朝廷から神主(かんぬし)(しき)に任じられることを望んだ。天皇の名の下、朝廷から神主職が補任される神社は、京都の伏見稲荷大社や大坂の住吉大社など、最高位の社格を有する神社に限定されていた。対応に窮した二条関白は、神道を家業とする公家・吉田家に補任の可否を諮問することとなる。

戦国時代になると吉田家は、自家が神代より唯一伝えてきたと称する神道の秘儀・秘説を地方の神主たちに伝授するようになる。春日社の神主家・鬼嶋家もこの頃に吉田家の門弟となり、以来同家との交流を続けていた。こうした先祖以来の交流がものを言ったのであろう、吉田家当主の兼起(かねおき)は二条関白に対し、次のように取り次いで朝廷による神主職補任を後押しする。

鬼嶋は桑名春日社一社の神主であるばかりでなく、伊勢国内に所在する数多くの神社の社司を、桑名藩主・松平定綱から申し付けられている。さらに先だって朝廷より正式に位階を授けられており、今度朝廷から神主職を補任されることについても問題はない、と。

神道を専門とする吉田家の答申は、次に掲げる綸旨(りんじ)(天皇の口頭命令を伝える文書)の発給へと結実した。

(写真?文章?)

この綸旨によれば、鬼嶋は伊勢国北部一帯の神社の惣神主に、「天氣」すなわち天皇の意向によって任じられたことになる。どれほど実効性のある内容であるかは不明だが、時の天皇(後西天皇)の命令は伊勢国にあっても重く受け止められたであろう。かくして鬼嶋は、吉田家の後援によって伊勢国北部の神社を束ねる立場を朝廷から承認された。

なお、この一件はこれまで全く知られてこなかったが、このほど吉田家旧蔵の史料(天理大学附属天理図書館所蔵「伊勢桑名社司鬼嶋図書神主職之件」請求番号:吉五三―八四)によって初めて明らかとなった。当該史料の全体の紹介については、稿を改めることとする。