神社について
御祭神
桑名宗社は桑名神社と中臣神社の2つの神社からなる、
全国的にも珍しい神社とされています。
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桑名神社
御祭神
天津彦根命
天久々斯比乃命
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中臣神社
御祭神
天日別命
相殿
春日四柱神
建御雷神
斎主神
天児屋根命
比売神
御神徳
子孫繁栄
子宝に恵まれ、子供の健やかな
成長を守り、家族円満にする御利益
事業繁栄
会社などの商売繁盛や目的達成による
繁栄と末永く在り続ける御利益
厄除開運
悪い事を引き起こす「穢れ」を祓い、
開運招福を呼び込む御利益
宮司あいさつ
当神社は桑名最古の神社として約1900年の歴史を有し、桑名の歴史を語る上では欠かすことのできない存在です。戦災で多くの物を無くしてしまいますが、今でも村正や本多忠勝の朱印状、徳川家康坐像などの有形文化財を所蔵するほか、ユネスコ無形文化遺産に登録される石取祭などの無形文化財を今なお保有しています。
伊勢神宮とも関係深く、天照大御神の第三子である天津彦根命を祀り、伊勢国に入り最初の神社として、七里の渡し場に建つ「伊勢国一の鳥居」を御下賜いただくことが伝統となっています。この桑名と伊勢が、神代より繋がるご縁を結んでいることを誇りに思います。
宮司就任より「ひらかれた神社」を目指し、神社の文化財活用をはじめ、インターネットの活用、境内整備などをおこない、年々参拝者が増加していることは大変うれしく感じます。文化を伝承しつつ、新しい文化の創造に向かって、ひらかれた神社を整えてまいります。
桑名宗社宮司不破 義人
桑名宗社の由緒
桑名宗社とは桑名神社と中臣神社の両社をあわせた名称であり、古来桑名の総鎮守として桑名首(くわなのおびと)の祖神を祀ることから桑名宗社という。
桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の第三御子天津彦根命と、その大神の御子天久々斯比乃命の二柱である。天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名の豪族)の祖神であるので桑名の開祖として仰がれ、その子孫は代々代々祖宗の御社に奉仕し、大化改新後も郡司となって統治を支配した。景行天皇の御代にはすでに三崎大明神として崇められたりと記録があり、古来桑名の地主神として、まだ郡府の総社として崇敬極めて篤い御社として【繁栄の神様】と仰がれる。
中臣神社も延喜式神名帳にその名を見える古社であり、桑名神社と共に延喜式内社とされている。中臣神社は神護景雲三年(769年)に常陸国鹿島社(茨城県の鹿島神宮)より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られたと記録がある。御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の遠祖として仰がれる。
古くは現地より西方へ二十町余も隔てた上野町山上にあったのを、正応二年(1289年)に桑名神社の境内に遷し奉り、永仁四年(1296年)に奈良春日大社から春日四柱神を勧請合祀してからは「春日さん」と呼ばれ【厄除けの神様】と仰がれる。
それにより当神社は繁栄の一途をたどり、足利時代には幕府より三丁掛にて八百石、上之輪村に三百石の神領を寄進、応永二年(1395年)・永正六年(1509年)・天文20年(1551年)と遷宮があり、永禄十年(1567年)には吉田家より「一之宮(それぞれの国で第一の資格をもつ神社)」として許可された。永禄十二年(1569年)には織田信長より神領の寄進、天正年間(1573~1592年)には長島城主にて桑名をも兼領した滝川一益が社殿を造営した。
江戸時代に入ると、将軍・藩主の崇敬いよいよ深く、慶長六年(1601年)には徳川家康より神領百石の寄進をはじめ、本多忠勝・忠政、松平定綱などの歴代の桑名城主から次々と社領・営繕の寄進を受けた。
明治になってからも元年の御東行、二年の東京遷都と、共に天皇・勅使が御泊りになるなど崇敬を増し、明治十四年(1881年)には県社に列せられた。また、明治三十九年(1906年)には三重県告示にて神饌幣帛供進指定社となった。
焼失前の拝殿は文化年間、楼門は天保年間に、いずれも桑名城主より造営されたもので、明治二十五年(1892年)の大改造では諸戸清六より玉垣奉納を受けるなど社貌を一新、荘厳な一大社となったが惜しくも昭和二十年(1945年)の戦災で全て焼失した。
敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解によって昭和二十九年(1954年)に拝殿が、昭和五十九年(1984年)には本殿・幣殿、平成七年(1995年)には楼門がそれぞれ立派に再興されるに至った。
所有する社宝ならびに
文化財
その他 多数