二つの神社からなる桑名の総鎮守 桑名宗社(俗称:春日神社)

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春日神社のあれこれ

執筆者岡野清彦 氏

春日神社と伊藤性

伊藤の姓は全国で五番目に多いとされ、全国的に馴染みのある苗字とされている。『日本姓氏語源辞典』には伊藤の姓は「伊勢の藤氏の意なり、・・・(中略)・・・伊藤氏は根本においては藤姓なれど、後世諸種の関係より之を称するもの頗る多く、全国何処として此の氏のなき処なかるべし。これ此の氏の偉大なりしに拠るか。」と記され、伊藤姓の全国的に広がるには諸説あるが、伊勢国(三重県)の藤原家の関係が根本にあることは明らかである。

その中でも、三重県桑名市における伊藤姓を名乗る割合は非常に多い。その源流は中臣神社に祀られるご祭神・天日別(あめのひわけの)(みこと)が大きく関係している。

桑名の総氏神である桑名宗社は地域からは「春日神社」と称される。実際は桑名神社と中臣神社の2つの神社を併せ祀る、全国でも珍しい形の神社である。

両社とも延喜式神名帳(927年)に記される由緒ある神社であるが、今のような二社並列に祀られるようになったのは、奈良の春日大社より春日四柱神を勧請合祀した永仁4(1296)年とされている。 この伊勢国(三重県)北部は、平氏の時代、鎌倉幕府・南北朝・戦国時代・江戸時代という時の変化の中で、特に南北朝は北勢四十八家が合議制で武士団が運営されていた。また伊賀は井筒順慶、藤堂高虎と一国一城に近い形で運営されていた。各時代において各氏神との関わりも維持されてきたが、伊勢国は神宮神領、松阪神戸の紀州領、桑名・亀山・津(久居)など諸藩が存在し、ことに桑名は物流拠点として早くより発展を見せ、各(うじ)のアイデンティティと氏神の関係が混ざり合い、多くの力を持ちはじめた状態であった。

例えば、伊賀市にある日置神社は平家の家人、平宗清の長男・日置太郎清家が建立し、日置家の子孫が代々奉祀してきた。ここに日置姓を名乗るコミュニティ「氏」ができ、日置神社を氏神として祀る。その子孫の一部がいなべ地域に移り住む際には「日沖」と変えて、新たに地域にコミュニティを作り、拡がりを見せたことから、いなべ市には日沖姓が多い。

中臣神社のご祭神である天日別命は『伊勢国風土記』に記され、神武天皇に仕えた。当時、伊勢津彦が納める国であったが、天日別命は天孫である神武天皇の命を受け、伊勢津彦に自身の納める土地を譲るように要求する。伊勢津彦は要求を拒むも、天日別命が攻勢の準備を整えると、恐れをなし夜に東方へ去った。そして伊勢津彦から手に入れた地に「伊勢」と名付け、平定させたことから伊勢国造と祖とされる。その子孫は後に渡会家とされ、伊勢神宮外宮神主家となる。

そして永仁4(1296)年に天児(あめのこ)屋根(やねの)(みこと)を含む春日四柱神が勧請合祀されることとなるが、この天児屋根命は祭祀や政治に関わる重要なご祭神で、中臣氏(後の藤原氏)の祖神である。

ここに伊勢国造の天日(あめのひ)別命(わけのみこと)と藤原氏の祖神である天児(あめのこ)屋根(やねの)(みこと)が合わせ祀られ、『日本姓氏語源辞典』に記される「伊勢の藤氏の意なり」と重なり、伊藤姓のルーツということができる。

おかげまいり以前、各国の往来が自由でなかったので藤原本家の氏神春日大神に信仰を持ったのではないかと思われる。

また天理市森本町の太祝詞神社(森神社)の如く、国造や祝詞司に仲とりもちの思いをはせて信仰が生まれたのではないかと思われる。

加えて、桑名は信長・秀吉の時代は三河・信濃・美濃より神宮に対する御用材の献納も多く、尾張海東郡勝幡浦伊藤丹後守長実が桑名に一族を連れて任につきし事もある。この未流、三河設楽郡古屋敷にあり、神宮に献納する赤引き糸の犬頭神社神主もあり、桑名との関係も深いと思われる。

武田家に任えた諏訪伊藤氏(工藤流)も任用されて桑名に住んだとされる。桑名に春日四柱神が勧請される少し前、源氏誅滅の勅旨を奉じて伊勢神宮参拝の途中、大中臣定隆が一志駅(松阪市曽原町)にて病死し 御門神社として祀られた事も関係していると考える。