二つの神社からなる桑名の総鎮守 桑名宗社(俗称:春日神社)

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春日神社のあれこれ

執筆者石神教親 氏

春日神社のかたち

桑名の総鎮守である春日神社は、慶長6(1601)年に本多忠勝が入府して行った「慶長の町割」によって社地が定まり、江戸時代を通じて今の場所に鎮座していた。桑名城と桑名城下町が整備された「慶長の町割」によって今につながる桑名の基盤ができあがったのである。ただ、春日神社の境内の〝かたち〟は「慶長の町割」の以後に改変を受けている可能性がある。その根拠となるのが、三重県総合博物館所蔵「主図合結記」にある桑名城・桑名城下町が描かれた「伊勢国桑名」である。この絵図は、平成28年に行われた桑名市博物館特別展「徳川四天王の城―桑名城絵図展―」(平成28年3月5日~4月10日)に出展された図の1つである。この展覧会では数多くの絵図等が出展され、城や城下町の姿をつぶさに見ることができた。

筆者が注目したのが、本図に描かれた春日神社の〝かたち〟の入り口が現状の東側ではなく、北側になっているところである。同じく出展されていた鎮国守国神社所蔵の「本多忠勝桑名居城之図」でも、入り口は記されていないが、境内の形状が本図と近似している。

両図から導かれる答えは、「慶長の町割」が行われた当初、春日神社の入り口は北側にあった。そして、ある時期に改変があり、東側に入り口が設けられたということである。それに伴って、東側の道の形も変わっている。その他、両図には浜地蔵・猟師町が描かれていないという共通点がある。改変があった時期であるが、展覧会に出展された絵図で、国立公文書館所蔵の「勢州桑名城中之絵図」では神社の入り口は東側になっている。この図は、正保元(1644)年に幕府が全国の大名に指示して作成させた絵図の1つで、承応3(1654)年の墨書があり、この時までに行われたと見ることができる。

展覧会に出展された絵図を通覧すると写真のように「宮」とのみ記しているもの、「春日」・「春日大明神」・「三崎大明神」とあるもの、「春日大明神・三崎大明神」と併記しているものなどがある。

今後、春日神社の〝かたち〟が、絵図の年代を考える上での1つの基準になると考えられる。すなわち、春日神社がどのように描かれているかで、江戸時代初期の絵図かが分かるということになる。新たな資料の発見に期待したい。

参考文献:桑名市博物館『徳川四天王の城―桑名城絵図展―』平成28年3月