二つの神社からなる桑名の総鎮守 桑名宗社(俗称:春日神社)

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春日神社のあれこれ

執筆者西羽晃 氏

仏眼院性恒から三崎葦牙へ

明治維新前は仏眼院の住職である性恒が春日神社の神職を兼ねていた。しかし明治政府は神仏分離を行い住職と神職を兼ねることは禁じた。桑名城は新政府軍に明け渡され尾張藩が管理した。慶応4(1868)年3月10日に仏眼院の明細帳を出すように尾張藩の取締役所から仏眼院へ命じられた。同月26日には春日神社の明細帳を出すように春日神社の神官である鬼島筑後守に直接に命じられた。従来なら仏眼院を通して神官に出されたのに、性恒は無視されて困惑した。

同年8月25日夕方になって、住職か神職か、即刻に決めるように申し渡された。性恒は徹夜で苦悩し、「泣血切歯」して神職になることを決意して翌朝に「還俗決意書」を提出した。政府からの連絡、それに対して返答などもすべて尾張藩を通じるので、手間もかかり真意が伝わりにくかった。「還俗」のことも宙に浮いたままで月日が過ぎた。

春日神宮寺にあった銅鐘(現在は仏眼院にある)

明治2(1969)年8月に桑名藩の再興が決定し、9月3日に桑名城は尾張藩から戻された。翌日からは桑名藩と直接に意思疎通ができるようになり、何かと情報も判りやすくなった。明治3年9月25日に神仏分離をはっきりさせるようにと命令が来た。同月30日に性恒は還俗の届を桑名藩に提出し、10月22日付けで桑名藩から「桑名中臣神社」の神官に仰せ付けられた。住職か神職か2年間不安な心境だったが、満52歳で人生が大きく転換した。同月23日には仏眼院性恒を改名し、三崎葦牙と名乗った。その後は神宮寺の仏像などの処置を行い、梵鐘も撤去した。この梵鐘は東金井の徳元寺へ引き取られたが、最近に徳元寺から戻され、仏眼院に設置された。

仏眼院墓地にある三崎葦牙家の墓

仏眼院の住職は妻帯しなかったが、神職になったので、明治4年に葦牙は美佐尾と結婚した。二人の間には子供に恵まれず、民樹を養子に迎えた。葦牙は春日神社の神官を勤めて、明治20年10月26日に亡くなり、仏眼院墓地に葬られた。満69歳であった。