二つの神社からなる桑名の総鎮守 桑名宗社(俗称:春日神社)

桑名宗社(俗称:春日神社)のロゴ
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480年以上前に
村正より奉納された
宝刀と対時できる空間

第二次世界大戦の戦火をかろうじて免れたこの部屋は、移築されてから長い間忘れられた存在でありましたが、令和4年に村正の展示施設として改修されました。座して刀を鑑賞する独自スタイルの展示室で心落ち着けて村正に対時できる場となっています。

ショーケースの中に飾られた刀(村正)

施設概要

会館時間

10:00~15:00

定休日

不定休(12月上旬~2月中旬まで閉館)
※2023年12月21日~2024年2月中旬まで年末年始のため休館致します。

入館料

無料

その他

素足の方の入館はできません。

正座して拝観することを基本としておりますが、正座のできない方は立ったまま拝観ください。

村正の歴史文化を広く発信するため無料公開を行っておりますが、建物や文化財の維持管理には費用を要します。授与品の代金は神社の維持管理に活用させていただきますので、ご協力をお願いいたします。

  • 桑名宗社奉賛会の入会案内
  • 修繕事業ご協力のお願い

眺憩楼(ちょうけいろう)とは

この建物は、当社から徒歩5分の場所にある「船津屋」を昭和35年に移築したものである。「船津屋」は、明治8年(1875年)に「大塚本陣」(本陣とは参勤交代のときに、大名が宿泊する最高格の宿)の建物を引き継ぎ創業したとされる。

泉鏡花、川端康成、志賀直哉、池波正太郎など文豪が逗留する料理旅館であり、揖斐川沿いに建ち、大小屋形船を推し、東洋ーといわれた「鐵橋:伊勢大橋」を望む眺望は絶佳な宿であった。泉鏡花の小説『歌行燈』の舞台や、将棋の王将戦の舞台として、地元はもとより日本中の賓客に愛されており、明治元年9月25日に明治天皇、英照皇太后、照憲皇太后の東西行幸啓の際には、本部屋に御駐輦され、当社内にある御膳水井(江戸中期より神供用として用いられた神聖な水)が供された。

その後明治天皇の命により市民の飲料水として解放され、産湯から日々の飲料水に至るまで、この井戸の恩恵を受けること多大であった。また明治21年(1888年)、有栖川宮熾仁親王殿下がお泊りになり、その際に部屋より見える景色に感銘され、この部屋に「眺憩楼」という名を下賜された。

第二次世界大戦の戦火をかろうじて免れたこの部屋は、移築されてから長い間忘れられた存在であったが、令和4年に社宝である村正の展示施設として改修された。座して刀を鑑賞する独自のスタイルの展示室の黒い漆喰は、氣比神宮の土を用い、心落ち着けて村正に対時できる場となっている。

また「村正」にも縁が深い、有栖川宮熾仁親王殿下による書を復元し、「眺憩楼 Muramasa Museum」の屋号として復活をした。

宝刀「村正」について

宝刀「村正」の写真

桑名宗社には三重県指定文化財の『太刀 村正』が2口所蔵されている。各々には「春日大明神」「三崎大明神」との新号が彫られており、天文12年(1543年)に村正自身が桑名神社と中臣神社に奉納を目的として制作されたものである。また確かな文献資料の乏しい村正にとって、本作2口は貴重な年紀作であり、しかも銘文には他には見られぬ「桑名郡益田庄」とあり、さらに奉納刀ならではの健全さと共に時代的特徴も顕著で、歴史的に極めて貴重である。

宝刀「村正」の写真

第二次大戦下において疎開させるために漆が塗布され、長らく地刃不明であったが、令和の御大典事業の一環として研ぎ上げられて地刃が鮮明となった。刃文が表裏揃うなど村正ならではの作であり、さらに上半の焼き高めで帽子も一枚風となるなど、華やかで力強く、村正の一作風を示した見事な一口である。

単に歴史的資料価値のみならず、美術工芸品としても価値の高い、村正の代表作とも云える傑作である。

宝刀「正重」について

宝刀「正重」の写真

正重は、室町・戦国時代に活躍した刀匠・村正を祖とする刀匠です。「千子派」と呼ばれています。室町時代後期の千子派には、村正のほか、正重や正真らがいます。江戸時代には、村正が徳川家に祟るということから村正銘の作品は見られなくなり、千子派の系統ではこの正重が存続しています。

こちらの太刀には「貞昌」が奉納したことを示す彫があります。「貞昌」は姓が分からず、どのような人物かは分かりませんが、当時の桑名藩松平定重の家老に奥平貞澄という人物がおり、あるいはその一族かも知れません。

宝刀「正重」の写真

江戸時代の千子派の作品は極めて少なく、室町時代後期から続く桑名の千子派の工芸技術を示す正重の基準作例といえます。また、江戸時代の奉納刀として、文化史的にも価値が高いものです。

時空をこえて~眺憩楼ができるまで~

当神社の所蔵する太刀・村正は美術的、歴史的にも貴重な作品であり、村正の代表作とされます。天文12年(1543年)に村正自身によって奉納された作品であり、その刀に刻まれた銘文は、現存する「村正」の刀剣の中で最長とされ、歴史的に極めて貴重とされます。
全国屈指の知名度を誇る「村正」ですが、その刀が桑名で作られていたという事実を知る人は少なく、また桑名で常設展示をする施設がないことは誠に残念な限りでございました。

所蔵する「宝刀村正」は三重県指定文化財であって、管理と展示には大幅な制限がかかります。そのため令和2年2月に「宝刀村正写し奉納プロジェクト」としてクラウドファンディングが実施されました。そして忠実な「写し」を作刀し、展示施設を整えることで、その存在を示しつつ、歴史と文化を発信する場所が整いました。

この素晴らしい「宝刀村正写し」の展示をきっかけに、「村正=桑名」という考えを定着させ、地域の誇りとなってほしい。加えて村正の逸話の虚と実を明らかにして、逸話への理解を深めていただきたく存じます。

「村正」には根拠のない妖刀伝説が存在します。しかし徳川家康公も自ら「村正」を所有し、死後には側近に遺品として譲渡しています。刀の奉納者である「村正」自らが丹精込めた技術の結晶を神様に奉納することは、自身の誇りであります。いつの時代であっても偽りの伝説で「村正」の気持ちを傷つけてはなりません。

480年以上前に村正によって奉納された宝刀は、地域の先人により大切に守られてきました。「村正」の代表作であり、宝刀と呼ぶに相応しい刀剣を永久に守り続けてゆくために、展示施設にもこだわりが詰まっています。この建物は明治時代の料亭「船津屋」を移築したものであり、明治天皇をはじめ皇族の方々が宿泊されたことから各所に菊紋が使用されています。

この部屋より見る揖斐川と多度山の景色は素晴らしく、明治21年に有栖川宮熾仁親王殿下がお越しの際に、ご賞賛あらせられ御筆を採られて「眺憩楼」の名を賜りました。昭和35年に春日神社に移築されることになりますが、一般公開されたことがなく、その歴史を知る方は殆どいません。

時間と空間を越えて、桑名の心を感じていただける場となれば幸いです。

桑名宗社宮司不破 義人